あれから半年・・・

おことわり。

本日の日記は、人によっては不快になる可能性があるショッキングな描写が含まれています。不快な思いをしたくない人は以下の日記を閲覧する事をお勧めできません。迷わず、読まないでください。























今日は、がらにもなく真面目な日記になるかと思います。

311から半年がたちました。
そして911から10年だそうです。
10年前、911の映像をリアルタイムで見て(陰謀説も依然消えないけど)、もう一生これ以上インパクトある出来事はないんだろうなあ・・・と思ってたけど、残念な事にそれ以上インパクトな出来事を目にしてしまった日。

未だに多くの人が嘆き、苦しみ、毎日戦っている。
そして、その場にいなかった人も、見えない敵におびえながら日々苦悶しており、子供を抱える親や、これから結婚しようと思う女性、子を産もうとする女性にとって大きな不安の芽を心の中に宿してしまった日。

他人ごとに思える世界の大きな事件でも、自分にとっては他人事ではない。
何度も日記に書いたけど、Yoshiは311の日。僕は死んでいた。たぶん本当はこの世にいない人間だったのかもしれないのです。

日頃の行いなのか、ご先祖様が守ってくれたのか・・・見えない虫のしらせなのか、よく分からないけど、事実としてYoshiは今生きている。この生きているのは誰かに与えられた何かなんだと感謝せずにはいられない。

あの日。
僕は2:46分。
予定では、ある会社でミーティングをしている予定だった。

福島第一原発から距離にして数キロのある会社。
ここ数か月、あるシステム導入や調整の関係で、ほぼ毎週そこに1泊2日コースで出張していた。前日に福島に入り、翌日車で、この会社まで片道1-2時間車で移動し帰ってくる。そんな繰り返し。だから、本当であれば、10日に出かけて11日に打ち合わせをして帰るコースだっただろう。

打ち合わせの時間はいつも13時。だいたい2-3時間の打ち合わせになる。

打ち合わせの後は、地元の会社の担当者に、近くの大野駅に行くか、時間に余裕があれば、いわき駅まで車を出してもらい夕方の特急列車に乗って帰っているはずだ。だから、もし、その場に自分がいたら・・・大きな地震で建物の中で崩れて下敷きになっているか、いつも走っている海岸線の国道で津波に流されているか、はたまた、駅で電車をまったり、電車の中で大きな地震、もしくは津波に巻き込まれていたのかもしれない・・・

「いやーやっぱり海沿いも情緒があって素敵ですねえ。俺仕事ひと段落したら一眼レフ持ってきてこの景色撮影したいですわ・・・」

そんな海岸線は津波ですべて持って行かれ、国道すら流出したので僕の小さなやりたかった事は一生できなくなった。

打ち合わせが伸びていれば、まだ事務所にいたはずだろう。遅い時は19時発のいわき駅からのスーパーひたちで帰路で、電車の中でおみやげを買うともらえる、ままどおるのおすそ分けと、駅弁食べながらぐったりタイムだったのが本当に懐かしい・・・

だから、事務所にいたら、その後電車も車も走る事は出来なくなり、結果として大量の放射線を浴びて被爆していただろう。原発から数キロでしたからね・・・社内の別のチームは当日福島駅近辺に別件の仕事をしていて、やはり新幹線も動かなくなり、迂回ルートで数十時間かけて都内に戻ってきた。どちらにしろ、その日、あの場所にいなかった・・・もし、いたら、僕は死んでいたかもしれない。なんだろうね・・・先方から「打ち合わせにならないので来てくれよ」と言われても全く行く気がせず、乗り気でもなく、同僚には「1回くらい打ち合わせさぼっても問題ないだろう」って話になり、結果的に打ち合わせは向こうの担当者が東京に来てやると言う話になった。

2:46分。
あとは、みんなが経験したとおり。

たぶん、僕の人生はここで変わったんだと思う。

僕は生きている。今、ここに生きている。
失ったものもある。 自分が数年かけてきてようやくサービスインしたシステムは11日使っただけでサービス終了になった。
僕と毎週顔を突き合わせてくれた会社の担当者さんは自分の車、仕事、家を失った。

震災直後、必死で色んなルートを使って自分の関わった人の生存状況を確認してた。
もう、連絡が付かないと思われた人も、不幸中の幸いでYoshiの身近な人に亡くなった人はいなかった・・・
でも、素直に喜べない。

テレビで何度か僕の知ってる町。知ってる道。みた景色が撮影されてた。
客観的に見ている自分。なんとかしてもう一度行きたいと思う自分。複雑な気持ちで数か月は過ぎた。

その間も時間は過ぎている。
ある、きっかけでYoshiが手伝ったシステムをお客さんがどうしても使いたい・・・このままゴミにするのはもったいない・・・なんとかならないか?ってオーダーが飛んできた。たしかにこのまま捨ててしまうのはもったいない。

でも、僕は都内のオフィスにいる。
出来る事は限られている。いや、何も大したことは出来ない・・・
開発メーカーさんと、1か月くらい、ほぼほぼ毎日怒鳴り合いに近い連絡や、打ち合わせをしていた。どうやったら、あの機械一式を安全な場所まで運べるか?理想を声高く上げても現実と言うのは非常に辛く。自分は甘ちゃんだなあと思った。

どうやってそこまで行く?道が崩れて通れない。運ぶ?運ぶ手段がない。運ぶトラックを確保したとしても、そこまで入ってくれる人がいない。入ったとしても、あの複雑なシステムをラッキングされているものから3重になったゴム手袋でドライバーなんか使えない。ましてや重量物。大人2人でも運べない物。調整というより、「無理です」って言葉ばっかりを聞く毎日で途方に暮れていた。

最後に
「自分が現地に行きたいです。自分が作ったもののケリは自分でつけたいです」

そうある人にお願いしたけど、あっさり却下された。
反論したかったけど、反論できなかった。

「お前、小さな子供2人いるんだろ?お前に何かあったらどうする?こんな事な誰も言わないけどさ、つまりお前が候補にならないと言う事はそういうことだ。」

結局、僕はいけなかった・・・いや、行かなかった。
でも、仕事は仕事。現地の人が重装備で低線量で結果的には少ない被爆で済んだけどミッションは終了した。

何も出来ない自分にイライラしてた。自分が作った仕事のせいで誰かに迷惑をかけた・・・もし、自分が設計した時に現地に行かなくてもデータをとれる仕組みに構築していれば・・・後悔ばっかりで悔しかった。実際遠隔地にバックアップ拠点を作る予定だった。お金の都合で次のステップにしてしまったのが痛かった。なんとか機材はダメになるけど、お客さんも欲しいのは中に入ってる情報資産。それだけでも遠隔でコントロールできれば・・・と数週間悩んでいたけど、

「建物のブレーカーを落としてしまったので、仮にネットワークが生きていたとしてもどうにもならない。」

と言われてしまって、なんとも言えない気持ちになった。そりゃそうなんだけどね・・・ブレーカー落としておかないと急に電気が来た時に漏電とか予想しえない何かが発生するので避難する時の絶対条件だっていうのは分かっていたしUPSも入ってたけど、ものの数十分しか動かないものだったし、想定外な動きだったんだよね・・・

そんなこんなで地震が発生して数か月は、この対応とか同僚が被災地に支援しに行く関係でバックアップ要員として過ごす季節になりバタバタした感じだったけど、どこか頭の片隅でこの出来事は忘れられなかった・・・

もう、世の中の風潮で地震原発事故も終わったように思っている人もいるでしょう。
そんな事はない・・・
少なくとも、放射線の影響は10年以上続くものだし、忘れるなんてありえない。
「なんかあの人、気にしすぎだよね・・・」と思われてもいい。身近に体験した自分だからこそ、自分は誰が何と言おうと出来る範囲で気を付けたいなあと思うわけです。風評被害?違う。実害だよ・・・そういえば数日前大臣が「死の街」と言う表現でマスゴミから叩かれてましたけど、あれも、客観的に見て事実なのに、なぜ否定するのかな?分からん・・・今日DASH村で計測されていた数値も結構高かったね・・・現実を受け止めないと出来るものも何も出来ないのに・・・

実は金曜日。1通のメールが来ていたんです。
送信元は、この会社を担当している同僚から。震災半年を前に「近況報告」ってタイトルで・・・

内容は仕事の話もあるので書けないけど、ポイントだけまとめると、あれから半年がたち、だいぶ落ち着いてきた。Yoshiさん達が作ってくれたシステムも現地から救出して現在は仮運転で何とか暫定的に動いている。避難したお客さんも無事に毎日すごしているようだ・・・と。

そしてね。メールには

「最後になりましたが。〇〇さん(相手の会社の懇意にしていた担当者さん)がYoshiさん達にとってもお世話になった。と言ってました、あの時期にあれだけの事を必死で調整してくれて本当に申し訳ない・・・今度こちらに来る時はぜひ避難場所の仮設住宅になってしまうけどお立ち寄りください。との事でした。放射線が高くてこちらに行きづらいかもしれませんが、たまには顔でも出してください。

って書いてあった。

なんだろうね・・・この気持ち。
いや、僕、結果的に何もしてないんだよ。
現地の人から見れば「東京もんは逃げた」と罵倒されてもしょうがない状況なんだよ・・・
でも、「会いたいから来てほしい」って言われるってさ・・・

外出中の電車の中で見たので目頭暑くなるのをちょっとこらえた。
申し訳ない・・・本当に何もできなくて申し訳ない。
ただ、それだけなのに・・・

9月。
今僕は新しい仕事をしています。転職したわけじゃないんだけど、
キッカケは311です。

311以後。誰かの何かを守るために、新しい何かを作ってます。
もちろん、いろんな悩みは増えて、自分の出来る権限は小さくなったけど、誰かの何かのために、自分が何が出来るんだろう?という毎日を過ごしてます。たぶん、この新しい何かは311がなければ世の中に出てこないものだったかもしれません。

そんな新しい何かを作るチームに僕はいます。
まだ、本格的に動き始めて3か月もたってないけど、あの時の悔しい気持ちを胸に秘め、もう、あの時と同じ繰り返しは絶対にしない・・・と言い切れるように世の中をほんの少しお手伝いできる何かを作るために僕はがんばってます。

もう半年。いや、まだ半年・・・
プライベートでも、神経質だと言われてますが、色々考えるようになりました。
今日、八百屋に行った時に、某県さんの梨がすごく安く売ってました。

「あー、そういう理由で安くなっちゃってんだね・・・」

どこか、みんなあえて大きく口にはしないけど、でも、影響はないとはいえないとなると、子供を抱えた身としては気になりますよね。

日本はどうなっちゃうんだろう?
自分は別として、はるくんやあいちゃんも含めて未来ある子供達の為に何ができるのか?
まずは、出来る所から自分なりに考えたいものです。

情報は色々散乱してて正解かどうか分からない・・・
でも、個人的には「最悪を想定してリスクをとる」と言う時代に残念ながらなってしまったんだろうと思ってます。

たった半年で、ここまで変わるんだなあ・・・
せめて、普段通りに出来る事は普段通りにして、気を付ける所は気を付けたいなあと思います。

まずは、自分が出来る事はなんだろう?
をテーマに自分なりに出来る事を考えたいと思います。

311から半年・・・
今日はこんな感じです。


追伸
311で被災されたすべての皆様が1日でも早く笑顔が取り戻せるようにお祈り申し上げます。

http://www.youtube.com/watch?v=5YDcAj49xI0&hd=1