もう会えない・・・

yoshi-blog2007-01-18

おことわり。

本日の内容は、非常に個人的でなおかつ、見る人にとっては気分を害してしまう内容かもしれません。そういうのが嫌な方はこの時点でブラウザを閉じてこの日のブログを見ない事をお勧めすると共に、お詫び致します。














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言葉には意味があって、言葉に意味があるから、それを表した漢字には想いとか考えとか、その表現手法とかが含まれているから今日存在している物だと思う。きっとこの世のすべての表現は言葉という物で言い表されているのではないか?そんな風に感じます。だから、自分のしている行動にも、口にした言葉にも、本人でさえわからない意味があって、初めてその意味に気がついた瞬間、人は知らない何かの力を発揮していると思わずにはいられません。今日はそんなお話です。

あなたは信じますか?この言葉の意味。

「虫の知らせ」

意味がわからない人のために簡単にわかりやすいサイトを見つけたのでここにお知らせします。

ttp://www.tamba.ne.jp/FAQ/9.htm

この言葉も、僕は昔から人が何か思ったから見えない虫に知らせてもらったと思って出来た言葉なんじゃないのかな?って思うのです。私自身。この虫の知らせは非常に多くの体験談から、実感している行動の一つだと思います。自分は宗教を信仰しないし、神様は信じない。けれどそれは自分の周りの体験談の裏返し的な意味もあって怖いからそういう物から距離をおきたい・・・そう思うから発している言葉なのかもしれません。

代々Yoshiの家系は信じてもらえるかそんなものはどうでもいいけど、そのような職業を生業としている家系の一族だそうです。残念な事にその生業はひいおばあちゃんの代で後継者がいなくなり廃業というか自然と終わってしまったのですが、ひいおばっちゃんは有名な方で、さるお寺からお給料を払うから来てほしい。そんな事を言われている人でした。よく「私見えるのよ・・・」そういう人の10人のうち6人は本物じゃないと聞きました。本当にその能力がある人は見えるんじゃないんです。感じるんです。見える=イメージしやすいと言う事であってその人のバイアスがかかって相手に説明しやすいから単純に見えるという表現をつかうけど、本当は見えると言う表現じゃなくて、感じる、もしくは聞こえる。そんな感じだって昔聞いた記憶があります。

なので、多かれ少なかれその血筋を引いているYoshiも年に何回かものすごく感が鋭くなったり、非常に稀な体験をするのですが、残念ながらひいおばあちゃんにも言われた事があるけど、Yoshi自身、そういう能力はないそうです。まあ、稀にあるかもね〜なんてニッコリされた事があるけど、私はただのサラリーマンですし、その辺は今日の本題と離れてしまうのでやめておきますが、ひいおばあちゃんに言われた事が一つだけあって

「怖いと思うのは、自分の心の中で何かやましい事をしているからそう思うこと。何も自分に非がなければ怖いと思わない。怖いというのは何かに対して怖いというのではなく、自分のしてきた行いに悔いがある恐怖から出てくる言葉なんだよ」

そんな事を言われた事があったのをふと思い出したりもしたけど、まずはそういう言葉とか理屈とかでも説明できない事象があって、その中の一つに「虫のしらせ」というのがあるのではないのかな?って思うんです。

もっと色々書く事あるんだけど、前置きが長くなったので本題に入ります。

いつも同じ行動しているのに、無意識に違う行動をする時ってないですか?なぜその時そんな事を思ったのか?なぜそんな言葉を発したのか・・・それはその時わからなくても後で、必ず「あーこれって、虫の知らせだったんだ」そう思う事がたびたびありませんか?

昨日僕は早く家に帰ってきました。YoshiはスーツとYシャツは朝に用意するので前の日にスーツとか明日着るものとかそんな事絶対に気にしない人なんです。便宜上早起きしなきゃいけない時は下着類とかまとめておく事はあっても、何を着ていこうか?なんて思わないし、適当に朝スーツのラックをあけて最初に目に入ったものを着ているのでローテーションとか順番なんか気にしない。嫁さんいわく「適当すぎ」と言われているけど朝の僕にそんな物を求められても困るんです。

でも、昨日の夜、なぜか何を思ったのかスーツを全部ラックから出して明日何を着ようかな?そう思ったんです。ここ数年そんな事微塵も思った事ないのに・・・しかもYシャツを見てラックの中にまだ3枚クリーニングかけたやつがあって独り言のように

「明日はストライプの物を来て、あさっては白いの。白いのは2個あるし、まー重ならなきゃいいや。何かあっても白なら平気だろう」

そう独り言を言ったんです。よく考えてみると白二枚あれば、ストライプのは間に挟めばいいのに明示的に「白は2枚あるからいいや」そう考えたんです。そして、礼服が目に入り、わざわざケースに入っている礼服を出して嫁さんにこう言ったんです。

「良かった。礼服まだちゃんと着れるよ。出来る事なら着る機会がなければいいけど、とりあえず大丈夫だったよ」

僕はそう言ったんです。結婚式も最近スーツで行くので礼服なんて数年着てないんです。なのに、そんな事を僕はなぜ思ったんでしょうか・・・

そして、今日。

朝一番からお客とアポイントが入っていたので静岡に近い場所に移動中で電車のに乗っていると母親から電話がありました。母親は泣いてました。

「今、○○が亡くなったわ・・・」

「・・・えっ・・・そっか・・・」

本日、僕の叔母さんが次の世界に旅立ちました。おばさんと言っても僕にとってはお世話になった人で母親は4人姉妹で長女です。その3番目の妹が本日お亡くなりになりました。僕は母方から見ると最初の子供なんです。叔母さんは小さい頃から僕の事を面倒見てくれて、生みの親は1人だけど、育ての親は他に3人いる。そんな環境の中で僕の身近で小さい時から面倒を見てくれた人でした。

電話を切った後、なんだろうな〜この乾いた気持ち。覚悟していたから?もうダメだってわかっていたから?どうしようもない空虚な気持ちと切なさがこみ上げてきたけどでも不思議と涙が出ない。誰もそばに座ってなかったけど、そして・・・

「そっか・・・俺、わかってたんだ。今日だって事が・・・」

つぶやいてしまいました。ヘッドホンから流れる曲は普段何気なく聞いていたけど、悲しいフレーズがあふれてました。

もう数ヶ月前から闘病生活を送っていて、良くなったり悪くなったり・・・一時は回復したんだけどそれでも、他の病気を併発して、大きな病院に転院してがんばっていたそうです。母親は妹を亡くしてしまったから言葉にならない嗚咽で電話口で言葉にならない言葉を発していたけど、どこか遠くに行ってしまった・・・そう思っただけでそこにリアル感がなくなってしまったような不思議な感覚でした。

母親姉妹は小さい時から僕に叔母さんって呼ばせる事を厳禁してて、○○ちゃんって呼び方で接していたんです。だから今でも母親の妹3人に対しては○○ちゃんって呼んでいるんですけど、そんな接し方をしてくれた人がもういない。知っている人がある日突然いなくなってしまう。自然の摂理だけど心の整理をするのには時間がかかりそうです。やさしくて、包容力あって、時には味方になってくれて、ある時は喜んでくれて・・・結婚する時に母親と一世一代の大喧嘩をしてた時も僕の側にたって僕の気持ちを母親に代弁してくれてたそうです。結婚式に来てくれた時も「おめでとう。○○さん(嫁さんの名前)とお幸せにね)そんな祝福をしてくれて祝ってくれた人に僕は何を返せたんだろう・・・何を恩返しできたんだろう・・・そう考えると、受けた物を何も返せないままになってしまった後悔だけが後に残りました。

あの時、僕がスーツを出して礼服を見なかったら・・・もし、そんな事を思わなかったらこのお知らせは、今日じゃなかったんだろうか?それとも、すでに今日と言う日が決まっていて突然驚く自分の為に心の準備をさせてくれたのか?よくは分からないけど、それが虫の知らせと言うのならまだ僕はこの言葉のありがたさに気がつくことは出来ません。思い出してみれば何気ない行動が今日と言う日を暗示してくれていたんだなあと思いました。

・スーツの話もそうだけど、今週末の予定入っていたのに嫁さんにキャンセルしよう、気乗りがしない
 と話してみたり
・今日嫁さんに出かける時に「何もないと思うけど何かあったら電話して」と言ってみたり
 (普段そんな事絶対に言わないのに・・・)

叔母さんには子供いるんだけど、あの子達はしっかりしている。気丈に振舞っているかもしれないけど、残す子供を後にする気持ちはどういう気持ちなんだろう・・・考えただけでも胸が苦しくなる。今はどんなうまい言葉も、何も考えられないけど、心の中で「どうか安らかに・・・今までありがとうございました」そう思うだけで精一杯だけど、受けた恩は一生忘れません。そしてどこか遠くで見守っていてください。

人は、悲しい時に泣くけれども、前にも何かの時に書いたけど、泣けるうちはましです。私よく泣き虫だからとか、そういうのは悲しいっていう面もあるけど、悲しいの前に「寂しい」という信号を回りに発しているんじゃないかと思うんです。だから、よく泣きながら相談してくる女の子に言うんだけど

「泣けるうちはまし。泣いてるって事はまだ平気だよ」

と慰めるんですけどね。本当にね、悲しくなると、涙も出ないんですよね。涙のポンプも悲しすぎると故障してしまうんです。泣くという感情を命令する脳みそが「今悲しい時だから泣きなさい」そう体に命令しているです。もっと悲しくなるとその命令を出す事すら出来なくて涙なんて絶対に出ませんから。涙が出ない悲しさは、氷雨よりも冷たくて、苦しいんです。これが分かる人はきっと、大変な経験をされている人じゃないのかな?って思います。今僕の精神状態がこんなに安定してて冷静にいられるのは、自分の心が平然としているんじゃなくて、悲しみを通り越してしまったから涙のかけらも出ないんです。

僕自身、昨年自分の死と言うものに対して覚悟した時がありました。

http://d.hatena.ne.jp/yoshi-blog/20060513

それ以来、今まで持っていた死生観ががらりと変わってしまったと言うのもあるけれど、人は絶対に死にます。いつか確実に死にます。だからこそ、人は輝いていて一瞬のきらめきをたくさんの人で満たしているから人類という生き物は繁栄しているんじゃないのかな?って思うんです。誰もが自分の生まれてきた意味とか、目的とか分かっている人なんて少なくてもがき苦しんで生きているからこそ、明日の自分がいるんじゃないのかな?って思うんです。

自分も子を持つ親になって、「自分が死んでしまった時にどうするのか?」そう考える様になってきました。残念ながら僕も長生きはできなそうです。今までは「死んだら死んだでしょうがない」そんな一面も持っていたけど、救急車で運ばれた時「やっぱり、俺まだ死にたくいない・・・」そう思ったからこそ、今の僕があるわけでこれから毎日、一日一日を大事にして、何があってもがんばろう・・・そう思っているんです。叔母さんは幸いなことに家族に看取られて旅立ちました。いろんな人に色んな出来事を与えて、記憶に残る人になりました。もう会えません。ただ、ただ、今日という日と今までの出来事に理由をつけて自分なりに時間をかけて心の整理をする事だけです。




この日記を最後まで読んで頂いた方へ。

ごめんなさいね、ここ数日暗い話題の話が多くて。でも、生きているって事は毎日楽しいことばかりじゃないし、楽しい事だけを日記にしてもしょうがないじゃない。だから、ありのまま、日々の事を記していく。そういう趣旨なので見ている人は大変申し訳ないけど、それでも記載させて頂きました。でも、ものすごく落ち込んでいるわけでもないし、パニックおこしているわけでもないし、感情が抜け落ちちゃっているかもしれないけど、そういう話題が多くなるって事はそれだけ自分の年がそういう年になってきたのかな?って事なのかもしれませんね・・・

本当はまだまだ書かなきゃいけない話題もあるんです。靴やさんの話とか、聞いた話とか、弓道ネタとか、衝撃の事実が発覚とか、その辺も追々書いていきたいと思います。そろそろここのブログとMIXIのブログは内容変えていこうかな?あっちのMIXIはプライベートネタ満載にしようかな?と思いつつ・・・やりたい事はたくさんあるけど、時間がないそんな感じです。