人は生きていると言うことは、いつかは死んでしまう。形は残らないかもしれないけど、誰かの心の中、何かの記録媒体の中、自分が生きている証とはなんだろう?と考えずにはいられないYoshiです。こんばんは(T_T)
今日は少し沈んでます。人によっては気分を害する日記になるやもしれないので苦手な人はスルーすることをお勧めします。
人と人との関わりと、生きると言う事について・・・
人生とは、アクセルがあるそうです。人生のアクセルは緩む一方で、どんどん守りの姿勢に入っていくものだそうです。若かったり、独身時代は人生のアクセルはとっても踏みまくりのアクセル全開で、結婚して緩み、子供が出来てゆるみ、そして家みたいな高い買い物をすると人生のアクセルは緩みまくりになそうです。
そんな自分もすでに人生のアクセルは緩みまくりなんですが、今思うと若かりしころはとっても、アクセル全開で生きていた気がするけど、どことなく守りというか、安全面に思考が緩みリスクを最大限考慮して以下に安全に生きるか?と言うテーマになってしまったのは否めないなあと思うわけです。
でも、生きていれば、何かしらの場面、場面に、多くの人と出会い、何か証を残して生きている・・・それはアクセルが全開だろうが、緩みまくりだろうが自分という生きている証は、人と人との係わりの上で成り立つものなんだと。最近なんとなく理解できるようになりました。
当たり前だけど人は一人で生きていけないし、誰かと係わらないで生きて行く事は出来ない・・・だから、こそ、関わりのある人たちと素敵な時間をすごすために、人間関係をより良くしようと努力しているものだと思うわけです。人間関係がうまく行っている時は、「なんて素敵な時間なんだ」と思い逆に人間関係がぎくしゃくしていると不快で、早くこの場から逃げ出したい・・・そんな自分の気持ちの持ちようも結局自分一人だけじゃなくて周りの人間関係が大いに左右されているんですよね・・・人と人との関わりは、ある意味自分の今の立ち位置を示してくれるものだったり自分の思い出とか記憶とかをつなぎとめてくれるベースとなるもので、自分が存在しているというのは多くの人との関わりが必要なんですよね。
そんな人との関わり・・・
残念ながら、人は永遠ではないので、どこかで終わりがやってくる。
それは、確実に訪れる・・・
人間平等では決してないけど、唯一平等であるのは、「死ぬ」と言うこと。
誰もが必ず迎える転機というのでしょうか・・・
そんな転機を垣間見た日。
大人になれば、自分の親戚、縁者、知人で亡くなる人はいるでしょう・・・
どこかで「ああ、しょうがない・・・」となんとなく自分で納得させなければいけない場面もたくさんあるでしょう。
誰も何も出来ないし、淡々とその事実を受け入れるしかない・・・
いつも、こんな場面では、そう思うことにしてました。
でもね・・・
今日だけは、そんな気持ちになれなかった。
悲しいと涙したわけではない。
でも、「神様って信じてないけど、むごい事するんだな・・・」
って、思った。
仕事もバタバタしていた日。結局岩手の出張は取りやめた。
本当は行ってもいいけど、横やり入れてくるアレがバカバカしくなり、「だったら勝手に行ってやってこいよ!」みたいな感じで、さっさと沈みゆく船から離脱する気分満々で過ごしていて、お昼ご飯食べて2時間くらい席をはずしていたんですね・・・
同僚と後輩と談笑しながら自席に戻り、たまったメールをチェックした時のこと。
たくさんのメールは届いていたけど、めったに届かないタイトルのメールが1通届いてました。
メールを見て絶句した。
「・・・・まじで・・・うそだろ・・・まじかよ・・・」
しばらく何もできなかった。動けなかった。
突き付けられた現実は、どうしようもなく、そこにある事実が現実なんだと理解するまで、正直5分くらい呆然としていたのかもしれない・・・
一緒にね、仕事をしていた別の部署の人が亡くなられたという訃報連絡。
今まで年齢聞いてなかったけど、自分よりかなり年下だったんだね・・・
ホント、言葉にならない・・・ただ、ただ、絶句した。
直接一緒にお客向いの仕事はしたことなかったけど、先輩がこの人と一緒のプロジェクトに入っていてよく先輩のそばに来て色々相談していたり、雑談していたりしたでの、その関係で先輩の隣に座っていたものだから、軽い雑談をしたり、あーそういえば2-3一緒に案件の打ち合わせとかで同席したかな?とにかく、すごく仲が良いとか、密接な関係ではないけど、知っている人ではあった。前々から体調が悪いとは先輩伝いで聞いていて、ここ半年くらいは病気休暇みたいなものを繰り返しているという話も遠い風のうわさレベルではは知っていた。
でも、今日突然亡くなったって事実。
知っている人が一人、ここからいなくなった・・・
なんだろうね・・・この空虚感。
人って、こんなに簡単にいなくなってしまうんだなあ・・・と改めて思った。
もちろん、先日の大震災で多くの人が亡くなっている事実もあり、別に特別なことじゃない。
でも、何がショックって、自分よりも年齢が若いって事。
喪主はお父様だった・・・
昔母親に
「一番の親不孝は、親よりも先に亡くなってしまうこと」
と、聞いたこともあるけれども、それでも、まだ若い・・・若すぎる・・・
まだ、結婚もしてなかったし、子供もいなかったはずだ。
別に密接な関係ではなかったので、プライベートは全く分からないけれども、人生ってある意味残酷だなあ・・・と、しみじみ思った。
今日、先輩は休暇で実家に帰ってた。
もちろん、この情報を知らない・・・
先輩は、頻繁にこの人と仕事で出張を繰り返したり夜飲んだり、仕事の一番きつい部分を彼にお願いしている面もあって、彼をある意味年下でぜんぜん若いけれど、尊敬の念をこめて接していたと思う・・・
だから、早く知らせなきゃいけないなあと思って辛かったけど連絡した・・・
元々休みの日にYoshiは相手に電話をすることはしないポリシー。
だから、トラブルがあっても、何があっても基本自分で解決する事を先輩は知っている。
そのYoshiが電話をしてきた・・・何かあったのは察してくれたんだろう。
「どうした?」
「すいません。休みの日に・・・」
「ああ、大丈夫だよ。なんかあった?」
「・・・実は、びっくりすると思いますが、〇〇さん。お亡くなりになられました・・・」
「え?・・・」
電話口は、しばらく無言だった。
後ろに聞こえてる街頭の雑音だけが聞こえる時間は、とても長く感じた。
「本当に本人か?嘘だろ?」
「・・・残念ですが、オフィシャルな通知だから本当です。」
「そうか・・・」
ただ、そういって、しばし無言。僕も無言・・・
「前から、かなり調子悪いとは聞いていたけど・・・」
絞り出すような声だった・・・そんな電話。先輩は仕事が大変になるな・・・とあえてビジネスライクに接したような気がした。
人は何で生きてるんだろう?
そして、死んだら、どうなるんだろう?
こんなに、悲しい思いを周りにさせてしまうなら、いっそのこと、みんな生きてない方が・・・いや、そんな事は現実てきじゃないな・・・でも、分からないけど、生きている以上、いや、生かされているからこそ、何があっても自分はそこに踏みとどまらなければいけないと思うんです。
簡単に死にたいとか思う時もあるけど、反面、こんな形で、自分の意図しない形で次のステージに行ってしまうことが幸せなのか、不幸なのかは分からないけど、なかには、こんな世の中でも、それでも生きたいと思う人もたくさんいるだろう。やっぱり、そんな人たちのためにも、自分のためにも、与えられた砂時計の時間とにらめっこしながら、それなりに生きていかなきゃ行けないんだなあと思った。
残念だ。
本当に残念だ・・・残念でならない。
周りにもすごく頼りにされていて、実際スキルもあるし、仕事も出来る人だった。
よく人材を「人財」と表現することあるけど、まさに会社にも周りにも財産となる人だった。
自分も、いつ死ぬかなんてわからないけど、今、死ぬとわかったら死んでも死んでも死にきれない。
まだ、子供達も小さいし、はるくんとあいちゃんが成人して一人前になるまでが僕の役目だと思うと、まだ死ねない。
自分が、はるくんが生まれた時の年齢と同じ年齢に亡くなられた・・・
なんて言っていいか分からないけど、本当に心からお悔やみ申し上げます。
どうか辛かった闘病生活を忘れるくらい、安らかに・・・
やっぱり、がんばろう。俺。
どんなことあっても、死ぬ時に悔いは残しちゃだめだよね?
死にたいと思うなら、
行きたいと思う人の分まで死ぬ気でがんばれ。
そこまで頑張ってから、死にたいと考えてもいいんじゃないのかな?
ネガティブな気持ちは、これっぽっちもないけど、
生かされている自分に感謝しようと思った。
そんな日。
人と、人との関わりは、やっぱり大事にしなきゃいけないなあと思った。