今、この瞬間に思い出したこと・・・

yoshi-blog2004-05-25

こう見えても昔小さい頃に油絵を描いてました。ちゃんと絵画教室に通って、デッサンの基本中の基本を学んでいたらしいのです。でも、本当は毎週その時間が嫌で嫌で、この時間が無かったら遊んで入れたのに・・・と思ってたのです。だからやってたというよりもやらされていたって感じでした。今はそのトラウマが残ってるのか絵を描いてみようかな〜っていう気持ちはまったくありません。それでもその頃はがんばってたんですよ。今も直らない「ムラッ気」は当時から発症していて、ものすごくやる気のない時はデッサン用の粘土をちぎって遊んでたけど、マジメにやってた時はちゃんとキャンパスの前に向かって絵を描いてました。

その先生は結構ある分野の世界では有名な人だったけど、絵を描く楽しさを教えてくれたのです。そのおかげで僕の作品の一つは海外に輸出されなんかのコンテストの賞をとったらしいけど当時ロシア語なんて回りで読める人はいなくて、いつしかその賞状もどっかにいってしまったりしてるのです。そういった技術があったおかげで夏休みの自由研究は全然苦労しませんでした。絵を1ヶ月の間に1枚描けば終わるのです。なんていうか趣味と実益を兼ねている瞬間でもあったんでしょうか?それも今となってはいい思い出です。

前に少しだけ書いたけど油絵のタッチと水彩画のタッチって基本的に筆の使い方かた違うんですよね。油の塗料は伸びないから少しずつ書いていくけど、水彩画が水で薄めればどんどん伸びていく、そんな物だから僕の美術の絵を描く才能は学校ではまったく評価されてなかったのです。

絵画教室の先生は

「そこにある果物を描くときは、ただ描くだけじゃだめなんだ。絵を見た人がおいしそうに見えたり、すっぱそうに見えたり、何か自分で何を訴えたいのかテーマを持って描くのは重要なんだよ」

そう言われたのを覚えています。ツボに水が入っていたらそのツボはきっと冷たいんだろうな?目の前の人形は夜になると一人になるとさみしいんだろうな〜そう思って書いた絵は自分の中ではとっても悲しい絵に見えた気がしました。そう考える「自分の想いを伝える努力をする」という武器を手に入れたのは丁度その頃のような気がします。

小学校とか中学校とかの美術の時間もそれなりにがんばりました。ある時に「身近なものを書いてみよう」っていうテーマがあったんです。僕は小学生の頃にかぶっていた黄色い通学帽を描くことに決めました。その時に「きっとこの帽子は本当は空を飛びたいと思ってるのかな?」そんな風に考えながら絵を描いていたら、その帽子は僕のキャンパスの中でふっくらと丸みを帯びた帽子を書いてしまったんですよね・・・先生はそれを見て

「これ帽子っていうかパンだよね?」って言ってました。まあ先生のきっと素直な感想だったんだろうけど、正直その瞬間が僕が絵に気持ちが入らなくなった瞬間じゃないのかな?って考えるのです。自分のイマジネーションが相手に伝わらないんだったらきっとこの先才能はないんだろう(実際は子供だからこんな言葉はつかってないんですよ・・・)と思ったんですよね。まあ、その時に「人に何かを伝えるのは本当に難しいな・・・」って思ったのです。

そんな記憶も薄れていたんだけど、帰りの電車で明らかに美術を勉強している学生さんぽい人が酔っ払って寝てしまってるおじさんを小さいノートにデッサンしてました。それをチラリと横目でのぞいた時に

「あっなんかすげえこのおじさん眠そう」

そう思って、リアルの被写体を見たらイメージどおりでした。むしろ絵の中のおじさんのほうが酔っ払ってる感じでした。この書いてる人の素性は知らないけど、ちょっとした絵で相手にイメージを伝える事ができる人は素敵だって思わず関心してしまった時に、自分の昔を思い出してしまいました。

その僕の作品たちの行く末は、絵のいくつかはどっかの知らない国の美術館に寄贈したり(これは日本の子供が書いたって理由だけでうまい、下手は関係ないです)何枚か実家にあったんだけど、実家を引っ越した時に捨てちゃったんですよね。その時に捨てたピエロの目がほんのりと涙が実は出ていたんじゃないのかな?って考えてたら悲しくなりました。今更気が付くのもバカだけど、物とか絵とか人形には魂が宿るって話もあるし、そう考えると僕は今この瞬間にあの絵の気持ちが理解できたのかもしれません・・・

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薬には手をだしてない
小康状態だけどキッカケで痛みが走ったりする

23:00 コーラ飲んだら痛みが出た。
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