次の旅への誘い・・・

yoshi-blog2004-02-23

朝、会社でメールを読んだら同僚のお父さんがお亡くなりになったてって連絡が来てました。心からご冥福をお祈りするしかないのです。お父さんには会った事もないけど自分の父親が亡くなる悲しみは他に変え難い悲しい出来事なのには違いありません。誰にでもいつか必ずやってくる出来事。その心の準備だけはしておかないとだめなんだろうな・・・って考えずにはいられないのです。

前々から自分の母親にはこういわれてます。「最大の親不孝は自分よりも先に子供が死んでしまう事だ」確かにそうかもしれません。僕にはまだ子供はいないけど、もし子供ができて手塩に育ててきた子供が亡くなるのは死ぬほど苦しい思いなんじゃないのかな?って思うのです。でもこれだけ文明が発達して科学が進歩しても「人間は死なない」という風にならないのはどこかで神様が歯止めをかけているのかもしれない。

死ぬって言うのは「怖いもの」「苦しいもの」って考える事が多いけど色んな宗教の中には「死ぬと生まれ変わる」という説を唱えている宗教もあって、その信者は「死ねば次の世界が自分を待っている」そんな風に思う人もいるのです。手塚治虫火の鳥の何編か忘れたけど、死んだフェニックスも業火の中からよみがえった不死鳥だから、その血を飲むと不老不死になるなんてストーリーがあったけどまさにあれが人間の昔から思ってる理想の姿なんじゃないでしょうか?

僕自身、今思うと「あれは一瞬死んだんじゃないか?」っていう体験をした事があって、ものすごくきれいなお花畑にチョウチョとか小鳥がさえずり子供が遊んでいて、目の前の小川を渡ろうとした時にその子供に「お兄ちゃんはまだそっちにいけないんだよ」と言われて子供の指の指す方向に歩いたら気が付いたらなんていう体験もした事もあり、あながち次の世界はまったく無いとは思ってないのです。あんな薬を飲んだせいで臨死体験(と思ってるのですけど・・・)をして以来色んな事に抵抗感とか拒絶感とかをまだ感じ続けていたりするのです。(トラウマっていう奴ですかね)

僕のひいおばあちゃんとひいおじいちゃんはその世界では有名な人で、近くのお寺からお給料を出すのでぜひうちのお寺にきてくださいと言われてるくらいの人で過去帳法名帳)を書いていて、代々その仕事をしてきたのでYoshi家の祖先はその筋の力はあったみたいです。幸いな事か僕には全くもってその力は無かったのですが、親戚のおばさんは看護婦をやってた時の夜に夢を見て、夢の中で患者さんが出てくると、次の日必ずなくなってたという話や、母親がなんかものすごくここが痛いというと、ひいおばあちゃんは「あ〜それはお便りさんがきてるんだね〜」と言ってなにやら念仏を唱えると母親の方からすうっと痛みが引いたりしたのです。その時小さな僕は「ねえねえおばあちゃんお便りさんってなに?」って聞いた事があったんです。ひいおばあちゃんは「それはね、この世で死んじゃった人が次の世界にいけなくて困っていて、誰かに頼って助けて〜って言ってるんだよ。おばあちゃんにはそれがわかるからきっとおばあちゃんの所に着たかったんだろうね〜」という話を聞いた事もあるのです。

僕らには見えなくなってしまったけど、人間は死んでしまうと魂という形になって次のチャンスまでまた次の旅を始めるんじゃないのかな?って思ったのです。旅をしていれば目的が見つかって次の目的地までいける人もいれば、旅にでる勇気がなくてその場に留まってしまう人、旅に出たいけど出る手段を見つけることができなくて困ってる人。それを今の世の中は自縛霊だとか怨霊とかおもしろおかしく表現して「怖い」ってイメージを植えつけているだけのような気がしてならないのです。

死ぬのは怖くない?って聞かれても間違いなく「怖い」って僕は答えます。死ぬ瞬間は老衰以外は痛い思いをしないといけないし、回りに迷惑をかけます。そして自分がこの世に生を受けたという事すら否定する事になるので、「自分で死ぬ」っていうのも許されない事なのです。よく歪んだイスラム原理主義者は「死ぬと次の世界で100人の美女に囲まれて・・・」と教えを説いて自爆テロの殉教者を育てているけど、あんなのナンセンスです。この世には自分で生きたくても生きれない幼い命や、母親の勝手な都合で殺されてしまう(中絶とか)人もいるのです。

亡くなるのは悲しい。でも人間の優れた機能が一つあって、「忘れる」と言う機能があるのです。少し前にも、自分のお世話になった弓道の師匠が他界されました。とてもいい人でした。僕に弓道という世界を教えてくれて、弓を通じて色んな人と出会い、人格形成を行う大事な時期に一つの柱となる物を僕に与えてくれました。そんな師匠もやっぱり人なので亡くなってしまいました。前々から調子が悪いって聞いてたんだけど「今度お見舞いに行こう」って話もしていたけどなかなか仕事とかで忙しくて行けなかったんですよね。それがすごい後悔をしているのです。そんな師匠の事もすこし忘れがちになり、この前の夏に弓道の合宿に行ったんですよね。その帰り際に弓道場の管理人と「そういえば●●さん最近みかけないね〜」なんて話をしてたんですよね。今思うとあれが虫のしらせかな〜って思ったのです。それから師匠が息を引き取ったと聞いたのは数日後でした。最後のお別れ会で師匠のお顔を見てその時は物凄い悲しかったけど、今はその時ほどでもない。たまに弓をもったおじいさんとか見ると「ああ〜もうこんなに時間が過ぎたんだ」って思い出すけどそれ以外は忘れられているのです。

虫のしらせってあると思いますか?僕はあると思います。ひいおばあちゃんが亡くなった時も、いつもは19時におばあちゃんの家を出て帰るのにその日に限ってなんか帰らなくて、そしたらおばあちゃんの様子が変だって大人は大騒ぎになって・・・と言う事もあったのです。今思うとおばあちゃんがお別れを言いたくて何かしらの力を使って僕たちをそこに留まらせたんじゃないのかな〜って思うのです。

特に宗教らしい活動はまったく持ってしてないけど勝手な僕の解釈で49日っていうのは、生きてた時からいろんな人にお世話になってるからその人に会いに行く期間でその後は次の世界に旅立つんじゃないのかな〜って思うのです。だから49日過ぎると遺骨をお墓に納めてその人は肉体から別れを告げるんじゃないのかな?って思うのです。初七日から49日の間に生きてる人はその人に対して心の整理をすると共に、その人自身も今の世界に対して心の整理をしてるんじゃないのかな〜と思わずにはいられないのです。

この世の中、人間平等なんか無いけど一つだけ平等な物があってそれは「誰でも死ぬ」って事で、どんなにがんばってる人でも、適当に生きてる人でもそれぞれ次の世界へ行く瞬間があって、次の世界へ行く時は現世でどれだけ「徳」をつめたのかってのが重要になるって話を小さい時に母親に聞いた事あるけど、人間生きていて完璧な人間はいないわけでその徳とはなんぞや?って最近思うようになってるけど、つまるところ「自分で納得し人に感謝される行いをすること=徳」なんじゃないのかな?って思うのです。(すごい自己解釈なので間違ってるとか言わんといて・・・)そう思うと自分はまだまだ徳はたまってないしむしろ借金してるんじゃないのかな?と思うのです。いつかは人は死んで次の世界に行く時まで、人に後ろ指を指されて「徳」を減らすような行いだけはしないようにしたいなあと思ったのです・・・